馬の頭の走り書き

書いているケモノ小説(BL含む)のこと。あるいは、たまに読書日記とかプログラミングとか。

ひさびさ。

ひさびさである。
これまでに読んだ本も一部、感想を書いてあるだけど、まあそれはまた今度。

今回はめずらしくマンガ。二冊ともすごかったので。
そういえば『ツノウサギ』ってここに書いてなかったかなと過去記事調べてみたけれどなかったのできっとTwitterにたいぶ昔書いたのであろう。


福島聡星屑ニーナ』(2)
 でましたニーナ2巻。ちょうど一年の間隔で単行本が出ているようだ。正直、待てない。
 紆余曲折を1巻で経て、主人公というか主人はルイという少年にうつる。星屑の記憶の中のニーナに惚れてしまったルイは、ニーナを忘れるために旅に出る。星屑に電池をときたま送りながら。そのごルイは宇宙防衛軍(?)のパイロットになった。理由がまさかの宇宙雷魚とは。とは! 4度めにして気づき涙腺が緩くなったことを実感した。そしてそして、そのあともすごいスピードで話が進む。
 このマンガすごい。おもしろいし、タイムスケールがおおきいことがエピソード間にあったことを想像させるし、それができるだけの種がまいてある。
 さいごに。
 ニーナさんすてきすぎる。
星屑「人はなぜ眠るのですか?」
ニーナ「夢のつづきを見るためよ」
 しぬる。


柳川喜弘『ばいばい、にぃに。 -猫と機関車-』
 ソラりん(*1)がわきで寝ているときに読んだ。読後にだっこしてぎゅってしようとしたら逃げられた。いい話だった。
 あらすじ自体はベタなお話なんだけれど、細部がすごく好きだ。元ボクサーで口癖が「困る」の弐戸くん。彼の名前は、弟(次郎くんは弟分といった感じか)を失いそうなことが二度め、夢に向かっていく(帯の言葉を借りれば「もう一度だけ夢を見る」)のが二度め、というところから来てるのだろうなあ。
 世界設定は基本的ににっぽんで、地名も固有名詞もほとんど同じ。ちがうのは人間がすべて猫なこと。みんな裸足であること。そして、死後たましいは交通機関の謎の路線でガンジス川にいくこと。あと死神とエンガチョ。
 解釈。弐戸はシロウくんにりんごジュース飲ませたかったんだろうなあ。生き写しの次郎にはりんごジュースをずっと断られつづけていたけれど、次郎が自分の為にボクシングをしたことで次郎が弐戸の思いを受け取ったことになり、それが反映されてか弐戸は列車内でシロウくんに会って、りんごジュースをやっと渡せた。これから彼が二度めの夢を追いかけることの暗示なんだろう。それにしてもだんごジュースw
 余談だけど、組長が料亭で八百長試合を打診されてるとき、お酒注いでるの死神さんだよね? なぜ彼はあんなことをしているのだろうか。弐戸になにが起きるのかをリサーチでもしてたのだろう。忠告するし、ガンジス行列車が折り返しになったとき明らかにうれしそうだし。彼にとって、弐戸は生きていてほしかったのかなあ。そうだとするとなかなかどうして情に厚そうな死神さんである。

 そして書き下ろし短篇。この短篇は見事にダマされた(叙述トリック的な意味で)。違和感なく会話が流れるんだもん。それにしても、当事者になんらかの関わりがある乗り物でガンジスに向かうのか。すてき。
 息子関連のエピソードがとてもつらくて、本編で耐えしのんだ涙腺が陥落してしまった。そして、ぜったい雑誌売りのおじいさん、すくなくとも死神は見えてると予想。「切れた凧を見失った奴」は海子さんのことだろうけど、死神がなにか話しているんだろうか。死神も凧がらみのことを言っている。そして、バスでおじいさんと死神が親しそうだし弐戸に言った「死に時は心得ている」という言葉から、死神がなにかアクションを起こしてるのだろうなあ。死神は、機会がある猫にすこし手を貸してくれるような神なのかも。

 このマンガ家さんは猫に表情をつけるのがうまい。次郎くんが弐戸のことをしって驚いた顔とか、スパーリングしてるときの弐戸の顔とか、あと、次郎くんの練習風景をガラスにへばりついて見てる弐戸は個人的スマッシュヒットだった。モエス。


*1 ソラりんとはスバル家の飼い猫ではなく、スバルの飼い主。あんまり構ってくれないご主人なのでイヌスバルにはつらい。

我が家の世界の中心は、猫だ。

3日前に読んだ本です。
ポール・ギャリコ『猫語の教科書』


副題は『子猫、のら猫、捨て猫たちに覚えておいてほしいこと』
編集者の友人宅に届けられた、一見暗号ともみえる書類の束を翻訳したものだ。書いたのは猫で、しかも雌猫であるとのこと。解読をおこない読んだ著者いわく「いわれるまでもない。端々にあらわれる意地悪きわまりない文章はメスでなくては書けない」とのこと。

猫が安定した生活をもつためにはどうすればいいか、人間についてや猫の特性でもある魅力的な表情やしぐさ、食事の確保その他に関する人間のしつけ、といったことについて、書いた猫の経験を交えて書かれている。なかなかにするどい洞察で、人間の動物に甘い心理を描いてた。頭をすりつけてくるときはかゆいだけなのに人間ったら勘違いしちゃってこれはつかえるわよ、とか。これは、猫を見る目がすこし変わるかもしれない。もちろん、にやにやしながら。ちなみに、本書の内容は、親猫が子猫に教育するべきことであるともしている。彼女の子供は見事、本書の内容を実践することで家族を得たんだそうだ。

ソラりん(スバル家の猫。すこしおデブ)には読んでほしいけど、一部ソラりんにふさわしくない表現があるので、有害図書指定をするべきであろう。自分の好きな食べ物を確保するとか、食事のおすそ分けを得るとか、ただですらお肉がついてきたのに体に悪い。ただ、ソラも親猫のお乳をもらっていた時期が確実にあったはずで、きっとこの本の内容をいまの時代にあうように再解釈されたものを教えられているにちがいない。ソラがそれを実践していて、ぼくらはまんまと肉球の上で転がされているのかもしれない。ソラが我が家を動かしていない面もあるけれど、それはソラが単に興味がないだけなんだろう。こんな本を書く猫がいるくらいだから、ソラりんもきっと人語を理解し裏でぼくらを針のようなことばで批判しているかもしれないが、そんなものは可能世界のここではないどこかで起こっていることであるはずなので問題はない。まさか、うちのソラりんに限ってそんなばかな! ぼくらにメロメロで夢中なのに決まっているさ! もちろん、お互いにね。

MOS

たぶん今月3冊め。2冊目かな? どちらだかはわからない。
神林長平『言葉使い師』

よくよく考えたら、神林長平の作品を『敵は海賊』『戦闘妖精・雪風』以外で読むのははじめてなのであった。テーマも、文章も、星最大値。とてもすき。この短編集はお気に入りにまちがいなくくいこんだ。

◇『スフィンクス・マシン』
スフィンクス・マシン、存在がアルゴリズム。形のとりかたがそのまま自己を規定するという。そのマシンが身を崩すとき、すなわち「主人公と会話しているスフィンクスマシン」に関しては死ぬことと同義に思えるのだけど、恐怖とかないのかな。各ユニットに記憶が蓄積されているということは、会話の内容もある程度は残っていて、また、ユニットの組み合わせによって現れる人格はもはや誤差になるような超人格的な構造があるんだろうか。想像がふくらむ。いずれにせよ、ユニットのかけらを取り戻しにきたときのスフィンクス・マシンにはきっと高度な自我ではなく、QUALIA3の敵のような、単純な思考しかなかったのかもしれないなあ。ぼくの部屋をたまにぷんぷん飛んでる虫はぼくがつくったのかもしれない。

◇『愛娘』
SF的奇譚。メカニズムがそれっぽくてこれぞSF。ただ、女性が老いて若返る過程が死と生をつないでいるのはなんとも、首のうしろがぞわぞわする。たしかに恋人が娘に、死からあらたな生へ、切れ目なく連続に変わられると(しかも記憶を保ったまま)、そりゃあ別れもする。宇宙でセックスするべからず。

◇『美食』
最後の台詞「脛かじりめ」は、本当に脛をかじっていたのかもしれず。味が精密に分かっても、のぞむ味を実現できない人間だからこそ、あの職でやっていけるのかもしれない。どんなたべものなのかわかったら、ショックだあれは。

◇『イルカの森』
雪風〈改〉にも冒頭が似ている話があったような。シチュエーションも似てる。けど、同乗者の性格だけが決定的にちがいああいう結末に。イルカのパロかわいいよパロでもフィアンセいるよパロおしあわせにパロ。イルカたちのいう、ヒトが過去を蓄積できなくなった理由は少なくとも現在も残留している(大気中か、その時代の人間たちか)ことがわかって、イルカたちはいろいろ得るものがあったのだろうなあ。文化も聞けたしね。せめて、ビーバーが飛ばせるほどの記憶はまだ残っていることを祈る。

◇『言葉使い師』
夜空に咲く黄色いバラ。言葉は受容した人間の脳に物理的な作用を及ぼす、というのがテーマかと思っていたけれどそれも含め言葉使い師の言葉であった。「作用を及ぼし」云々はきっと言葉使い師の意図であり増殖した言葉のつくった観念なんだろう。与えられた大枠にそれがあったかどうか、だけれど言葉の魅力かつ危険な因子はそこに依らない、ということなんだろうか。もう一度読むとあらたななにかがつかめそうだ。

◇『甘やかな月の錆』
クラークの『都市と星』を思い起こす世界だけれどすこし違う。SORを使うことで不死性がうすれ、それとともにまやかしの記憶がはがれ落ちる。母親と子供、という状況での親への愛情が、不死性のうすれと成長で真の愛に変わっていく。そして、不死ではない人、いずれ死ぬ人、死人として母親(育ての)を探しつづける主人公ほんとうに胸アツ。育ての父のジョイの穴掘りもアツいエピソードだ。最後に彼のみたもの、鏡のようなものっていったい何だったんだろう。タイトルから、月そのものだったのではとか、月ではなくとも浮かんでいるのではとか、憶測が楽しい。そしてもどかしい。そうしたなかで最後、都市のシステムに捕まりまた不死の輪に組み込まれてしまっても、かすかにのこる記憶を宿しながら暮らしていく。なんて悲しくて幸せな話だろうか。不死の輪にまたとりこまれたということは、お互い離ればなれになる選択をする可能性があるということで、幸せだけどもそれもつかの間かもしれない。つらい。


最初に書いたけど、シリーズではなく、シリーズとは違う、そして神林長平らしい作品をはじめて読んだ。いままで以上にすきになった。言葉というテーマがとくに。


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読み返してないからひどい文章になってるかもしれないなあ。
それでは、ねよう。

ディレイド・カンソー。

まさか一日で読めちゃうとは思いもよらなかったよ。今週の水曜に読んだ本。
今野敏『遠い国のアリス』

パラレルワールドもの。作中にフレドリック・ブラウン『発狂した宇宙』が登場する。「SFファンタジー・ロマン」と歌っていたけど比はSF:ファンタジー:ロマン=3:1:6くらいか。だいたい予想できる展開のうえ、恋愛という面も微妙。文章は基本的に一文一段落であり、「~~した」「~~だと思った」「~~ている」のような、所作を並べただけの文章がつづく。ぼくならこう書く、というイメージをしながら最後まで読んだのははじめて。時空の話で、せっかく1次元、2次元と一般化していったのに4次元のときだけなぜ時間を特別視したし。そしてむりやり現れる超ひも。

じつは1989年の作品だったらしい。イマドキの若者むけに、改行を多くしたりといった配慮をとってるのかとおもったけど、それはなさそうだ。

以上。

トースター焼きには最適の日々

本の上部を占める、待ち、そして焼けたトースターのパンを尻尾ふって食べ、眠る、そしてまた待ち……という犬のループ絵がかわいい非常に。
トーマス・M・ディッシュ『いさましいちびのトースター』

森の中の小さな別荘で暮らす電気器具たち。彼らの主人が二年以上ももどってこない。不安な生活をおくる彼ら──掃除機、電気毛布、卓上電気スタンド、、AMラジオ、そしてトースター──は主人を探す旅に出る。

本のうしろのあらすじによると、SFメルヘンなのだそう。読んだ感触としては完全に絵本だった。それも、絵があまりなく文章と話が長めな感じの絵本。あらすじだけでも「これ、SFかなあ……」と思ったものだけど、読んでますますSFじゃないと思った。電化製品がうごくし話すし、彼らは動物や植物と話をするなど登場人物のファーストクラスさ(人間以外のものが人間のように振る舞うこと。たとえば心をもっているとか話をするとか)がまさに子供むけなお話の王道を突き進んでいる。けれど、なんだかんだでバッテリがないと動けないとか、じゃあそれをどう解決して別荘から旅立つかといった部分はSFっぽさがにおってた。

書名は『ちいさなちびの仕立屋』という話からきているのだそうだけれど元ネタを残念しらなかったのだった。自分たちは不要なのでは、という気持ちを抱えて四人力を合わせていく場面がいくつかあるけれど、訳者解説にもあったけれど、『ブレーメンの音楽隊』みたいな部分だ。『ブレーメン』の動物たちはブレーメンにはたどり着かなかったけど、最終的に幸せになった。彼らもまた、期待どおりではないにしろ、ブレーメンの動物たちよりも幸せな結末をむかえることができたんじゃないだろうか。これからはものをいままで以上に大事にしていこうとおもう。もっとひろく愛着を注ごう。

ちなみに、彼らのその後がえがかえた続編があるんだそうな。その名も『いさましいちびのトースター火星へ行く』。気になる。さらにはアニメ映画化もなされたんだそうな。日本ではテレビで放映されただけみたい。これも観てみたいなあ。


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試験的に、ブログの英数文字を全角にしてみた。いっつもどうしてるっけな(調べるのがめんどう)。

そう、まってるから。

今回は本、というよりは絵本かな。
伊勢英子『グレイがまってるから』

注意してもらいたいのは、「グレイ」の文字をみて買ったのではないこと。手にとってみて、表紙のシベリアン・ハスキーがとてもかわいらしくすてきだったので買ったまでだ。けれどちょっと考えてほしい。この本を買った場所はブックオフの百五円コーナーである。すなわち、以下の状況が成立する。
ぼくが手にとる前、この本は本棚におさまっていた。
冒頭の主張に真っ向から反抗している。だって、背表紙しか見えない状況で表紙は見えないから。したがって「グレイ」の文字をみて(手にとりそして)買ったことになる。どっちでもいいのそんなことは。「てのひら絵本」シリーズということで、文章とともにたくさんの絵がのっている。印象にのこったことばは、文章半分挿絵半分の比率。いい本だ。スピ、スピ。

著者(文中では「絵描き」)の家にシベリアンハスキーの子犬がきてからの絵つき日記、雑記帳のような体裁で、ボールペン(かな?)で描かれた挿絵がすごくいい。動物も風景も上手だし、よこに書かれた説明やグレイのせりふがほほえましくなごやかだ。著者は絵本作家さんでもあるみたいで、マンガちっくでかわいらしくグレイを描いていることになんだか納得した。こういう絵柄の風景にぽつんと獣人さんがいたらなあ、ともちらりと考えた。
絵本作家という職業柄なのか、文章がやさしくてすこし詩的。『もくれんの後から咲くとばかり思っていたこぶしが真紅のがくからいくつもいくつも白い手を開いて空をつかもうとしていた』という文章がとくにお気に入り。花がのびのび咲いているのが伝わってくるようだった。こういうところを見習いたい。

総合すると、わんこさんと暮らしたいですということになる。ともかく、グレイの話はシリーズになっているようなので、続刊を探してみようと思った。


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グレイがまってるんだよなあ。書かないといけないよ、小説を。大まかな初期配置はデザインできたと思うので、細かくしていって、かつあとあと利いてくる部分をしっかりつくれば、流れを制御できそう。がんばるしかない。頭につまってるこれらを、つまったまんまになんてしたくない。

仲の悪いあいつの作文

今回はハードカバーだよ!
アレックス・シアラー『青空のむこう』

ひとことで言うと、語弊があるけど、主人公の男の子ハリーの死出の冒険物語。ハリーは姉とけんかして「ぼくが死んだらきっとすごく後悔するぞ!」といって家を飛び出し、トラックに衝突してしまった。やりのこしたことをかたづけて心のこりがなくなったとき、人は〈死者の国〉のむこう、〈彼方の青い世界〉にむかうことになる。

主人公が死にたてほやほやの男の子であるという設定がまず斬新。どんなに痛々しい表現がくるんだろう、と構えて読みすすめたけれどそういったものはなく、死ぬなと思った瞬間に〈死者の国〉につくというしくみらしい。ハリーを現世にひきとめるものをなくすために現世にもどるのだけど、通っていた学校にまず行ってしまい、そこでショックをうけることになる。自分の居場所は他人のものになっていること。友人たちが(死後すぐは悲しみにくれていたとしても)たちなおっていること。親友がハリーと仲のわるい友達とうちとけたようにあそんでいたこと。その仲のわるい友達がハリーについて書いた作文のこと。壁にはられた作文を読むシーンは、もう教室で勉強したり遊んだりしゃべったりすることはできないのだ、ということをつよく実感させてくれる一番最初のできごとだった。終始「ぼくがいなくても世界はうごく」といったことが見いだされるばかり。そうして自宅へ。

学校とはうってかわって落ち込みまくっている家族たちをみてかなしく、なぜ自分がここにいてあげられないんだと思う。そして姉に、ニューヨークの幻ばりの力を発揮して、謝罪と愛情をしめす。そのあとの文章はショックでもあり、先が開け光がさしたようにも思える。〈彼方の青い世界〉手前での独白はまぶしすぎ、悲しすぎる。

「死」というものにむきあって書かれているということが、とくに物語の締めくくりかたを読むと非常によく分かる。主人公は死んだことの実感をじょじょに得ていき、生きたいと強く感じた上で、死んだことを認知する。このプロセスが、なんだか人間の(精神面での)成長をみているみたいで、または魂の外層をはがして純度をあげていくようにもみえて、苦しい気持ちにさせられた。

とてもオスススメ。そしてなんちゅー時間だ!

歩行祭

毎度なぜか「おんだむつ」と読み違えてしまう恩田陸に初挑戦。
恩田陸『夜のピクニック』

舞台となる高校では修学旅行の代わりに、全校生徒が二日ほとんどを歩き通すイベント、歩行祭が行われていて、今年度で卒業の男女二人の主人公がそれぞれの歩行祭をまっとうするお話。冒頭部分では「異母兄弟」とか「妊娠したうえ堕ろした」とか「(堕ろした子供の)父親探し」とか、あとがどろどろしそうなキーワードがぽつぽつ見え隠れしながらすすむ。というかどろどろを期待してた。読んでいくと案外そんなことはなく、むしろかなりさっぱりしていて中学・高校のころが思い出さるる。るるる。どろどろではなく泥泥した話だと思った。雨上がりのグラウンドを走った、泥の乾ききってない靴のような泥泥。青春である。

妹から借りて手に取ったとき、あまりの分厚さと重さにヴィっくりした。思ってたよりずっしりしていたけど、かなりさくっと読めた。男女それぞれが風景や思い出やこれからのことに思いを馳せるシーンも多くあって、書くのタイヘンだったんだろうなあといらぬ心配をした。メインストリームである「とある賭け」が歩行祭とともに進みつつ、サイドには多くの小ネタが散りばめられてた。けどこれ、すこし多くないかなあとも思った。いくつか削ってしまっても問題ないものがあるように感じた。

車の運転手が実は杏奈じゃないかとにらんでいたのだけど、結局そんなことはなかったぜコノヤロー!

『しーずまりませチーーズ』

上に会わせて「侵害土気」とかタイトルつけようと思ってたけどやられた。
オーエン・コルファー『新 銀河ヒッチハイク・ガイド 下』

総評としては、上下巻にするほど長くなる話だったのかしらんと。ワンエピソードにかける分量がちょっと多すぎるかもしれない。そしてちょっぴり進化したヴォゴンはだめだよ、あれだけは反感買っちゃうよ。QUESTに説明ほしかったよ。そしてトリリアン途中離脱かよう。あと、ちゃんと救われなさ過ぎなあの人もちょっぴりいい目にあったみたいでよかった。そして不幸体質の惑星破壊されボーイ。

ガイドの注訳は、映画版でのガイドのシーンを意識してやっているのかもしれないことに気づいた。注訳のときに、ガイドがスティーヴン・フライの声で、あのイラストで説明されているのかと思うとそれはありかな、という気がしてくる。頻度が高いのはちょっぴり辟易したけれど。

ダグラスの小説はイギリス的で、さらにひねった視点でのものの見方も相まって、説明しがたい笑いがこみ上げてくる。これをなんと上限するべきか。たとえば シリアスな笑いということばは、たとえばgoogleの検索窓にでもニコニコ大百科の検索窓にでもつっこめば分かることだと思うけれど、ジャンプで連載中 の『バクマン。』で現れたことばだ。旧『ガイド』の笑いとはシリアスな笑いなんかに近いものがあるけれど、それでは様々な要素が足りなくて結局ダグラスな 笑いと呼ぶのが適当だろうと思う。なんのひねりもない。一方で、コルファーのはそれを真似しようとしたあとが見えて、非常にダグラスっぽいけど一つのエピソードに対して描写がちょっと長い。でもダグラスな笑いはある程度出せてると思う。宗教がらみの部分がとくに。

惑星ナノにおける宗教戦争の話は最高。チーズ凝固占い教がそのひとつ。いわゆる天変地異には噴かざるを得なかったけど、そんな彼らのお祈り風景(キリスト教で言うところの「アーメン」に相当するもの)には本当に笑った。外だったので笑うに笑えず中途半端にニヤニヤしていて、笑ってはいけない24時よろしく笑いを我慢して我慢しきれなかった。なんだ「しーずまりませチーーズ」って。


というわけで、『新 銀河ヒッチハイク・ガイド』をぼくが一言で要約すると次のようになる。
『しーずまりませチーーズ』

以上、ファン補正がキツい感想でした!


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昨日読み終わってそのまま書けば良かったかなあ。冷静になりすぎて、また、もう一冊読んだせいで薄れてる。もっとアツく語りたかったんだけどなあ。ねむい。

侵害土壌

期待と諦めを胸に読み始めた三部作の第六シリーズ!
オーエン・コルファー『新 銀河ヒッチハイク・ガイド 上』

簡単に買った経緯を。たまたま紀伊國屋書店に寄り「あの本を買おうかなー」「ハヤカワエリアでぶらぶらしようかなー」などと考えながら河出文庫の前を通ったところ視界に『銀河ヒッチハイクガイド』の文字があったのできっと早朝が新しくなったに違いないなんだか派手な表紙になったもんだと視線を外そうとしたところタイトルに「新」だの「上」だのといった文字が見えたのでもう一度見そして上に書いたタイトルであると理解しオーエン・コルファーってなんだか見覚えのある響きそもそも文字に響きとはおかしなことだけれど語感という意味では大丈夫だ問題ないので記憶を引き続き探索したらちょっと前に出た別の作者による『ヒッチハイクガイド』の続編の作者がまさにそういう名前だったようなという記憶に鉢合わせししたがってこれはどうせ邦訳は出ないだろうとふんで買ったその原著"And Another Thing..."であるという帰結に達しそれならばファンとして不安と期待と懐疑を心に満たして即買うべきだと思いそうしようと決断する前にレジに立っていたという一品が今回の主題である『新 銀河ヒッチハイク・ガイド 上』である。長い。一文にして五百文字弱。

どんな本かも大体上に書いた。愛すべき五作からなる三部作の六作目である。ぶっ飛んだユーモアにストーリーがすてきな『銀河ヒッチハイクガイド』シリーズの六作目。ダグラス・アダムズ亡きあと、遺族公認のもと書かれたもの。僕はこのシリーズがとびきり好きなので、その偏った目線で感想を書いてしまおうと思う。

まず思ったのは、「これを読んだ人はこちらも読んでいます」「評価の星を」といった、今風なことばが数多く紛れ込んでいること。これと「ガイドによる注釈」がついていることで、なんだか違うなあというもやもやが漂う。そして、「スコーンシェラス・ゼータのマットレスのような」という表現やこれに類するような過去作の用語が唐突に姿を現し、にやっとするどころかしつこいと感じた。マグラシアとかサイラスティック・アーマーフーィンドとか。なんというか、スターウォーズファンの書いた二次創作のようなにおいがぷんぷんする。自分の脳内で『ガイド』の世界を広げていった楽しさみたいなものが。ダグラスならきっと、注訳を地の文に突飛かつなめらかに入れていたに違いない。あるいはファンにこびているようにも見えるからかもしれない。現時点、上巻を読んだ段階では、ガイドの続編というよりはファンアートのような感じで読むと楽しめるといった感じである。トリリアンがあまりにもキャリアウーマンみたいな性格になってしまって、またランダムがあまりにも黒い感じで、その点に関してはちょっと目を覆いたくなるなあ。あと、ヴォゴン人にも繊細なやつがいるんですというのは一番やってはいけなかったと思う。ダグラスになりきれ(ら)ないのならば。

悪いことばかりかというとまったくそんなことはなくて、おもしろいところもたくさんある。アーサーが夢から覚めたときの反応(女二人に怒鳴られてるのが聞こえるうれしい)とか、「なにか取ってきてほしいものはある?」とか。もしかするとガイドよりも知れ渡ってる、恐怖のあのお方が出てくるところもなかなか笑った。ところどころ、くすりと笑ってしまう小ネタはいい線いっていると思う。

なんだかがっつり書いてしまった。好きすぎた。『ほとんど無害』の訳者あとがきに書いてあった、ダグラスが書こうとした『ガイド』六作目、読んでみたかったなあ。しんみりしてきた。
よし、訳者あとがきを読もう。

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ダグラスをしのびその日一日はタオルを身につけるという、タオルデーが実は明後日、五月二十五日となっております(ちなみに命日自体は五月十一日)。みなさんタオルを忘れずに用意しておきましょう。ここで「みなさん」ということばは、前に「『銀河ヒッチハイクガイド』シリーズを愛してやまぬ」という修飾詞が省略されている者とする。

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あとがき読んだ。なにこれ早く下巻読みたい。