前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? -ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史-』
久しぶりのブログ記事である。前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』をやっと読み終わった。
中断し、読み、中断しては読みで、初めて開いてからだと一年は経ってるかもしれない。じっさいの読書時間自体は数時間だろうけど。
さらっと紹介をすると、東洋・西洋の宗教や古典的な思想・哲学、現代の心理学や科学、哲学それぞれの分野において心とはどのように理解されていたかを、著者の考えと対比しながらみていく本である。したがってまず冒頭に、著者の立場とそれを理解するための、心身二元論とか物的一元論とかそういった用語の最低限の説明がまずあって、そのあと古今東西の思想の俯瞰へと入る。
総じて、意識の観点での俯瞰なので、おおざっぱに理解するにはいいけど、読後に他の本を読んでの補間は必要かなという感じである。
ぼくは直感的には「先ず心ありき」の立場なんだなあ、と実感した。しかしそれと同時に「心はとりたてて意味のあるものではない」という思いもあって、それがぼくの書く小説には端々にあらわれているのかな、とも改めて実感した。この本では著者の主張「心は幻想である」がしつこいくらいに表われる。これをがちょっとうるさく感じられる(実際読み進めるのを阻む原因でもあった)のは、きっとぼくが「心は神聖で、意味のあるものだ」と思いたいと考えている証拠なんだろう。
しつこいな、と感じつつ読み進めるわけだけど、対談のなかで著者が「どうせ死んでしまうのに」というようなことを発する場面があって、繰り返される先の主張は著者が自身に言いきかせているようにも見えた。そしてそれはぼくが「『心は意味がない』と思いたい」と考えている姿に見えてくる。著者がどうなのかはわからないけど、ぼく自身はそう考えているらしい、ということがわかった。
対談では哲学者の先生が、フッサールの現象学について、とくに「基づき関係」なるものの話をしていて、それが面白そうに思えた。
今の心の哲学などでは心身二元論や一元論のように、脳と心を対立させて考えている。だけど、そもそもそれは脳と心の関係の捕えかたとしてはちがうのではないか、その二つは基づき関係という、互いに互いの前提となるような関係にあるのではないか、と哲学者の先生は言っている。
基づき関係とはある二つのものA(基づく項)とB(基づけられる項)があって、
- AがあってはじめてBが存在する _(存在の前提)
- BなしではAはA足りえない _(性質の前提)
を持つことを言うんだそう。
つまり、「脳があってはじめて心が存在する」「心なしでは脳は脳であると判断できない」ということではないか、と。二番目の文は、脳を脳だと判断するのは心なので、心なしでは脳も脳でないものもいっしょくたの同じものだ、ということ。
(ちなみに「脳が心をつくっているから心がある」という文は、心の判断によるものなので意味をなさないって、書いてあった気がする)
この考えかたが目から鱗だった。
まあこんな感じで、なかなか楽しめるし新しい発見をできる本でした。