馬の頭の走り書き

書いているケモノ小説(BL含む)のこと。あるいは、たまに読書日記とかプログラミングとか。

北野勇作『かめくん』『カメリ』

「絶対好きだって! 読めよ、ほんと読めよ!」
と、北野勇作作品をずっとオススメされ続けてたんだけど、やっとこさ手にした。もっと早くに読めばよかった。

『かめくん』あらまし

 かめくんは模造亀(レプリカメ)。万国博覧会場近くの倉庫で、特殊なフォークリフトで特殊な作業をして働いている。住んでいるアパートや、新しい職場や、大好きな図書館や、商店街やなんかを歩きながら、今日もかめくんは考える。身のまわりで起こる、ちょっとふしぎなできごとのこと。ミワコさんのこと。甲羅の中と外のこと。木星で起こっているという、戦争のこと。
 ときどき甲羅から滲み出してくる思い出や、知らないはずなのに体が覚えていることなどは、いったい何を意味するのだろう。そんなかめくんのハートフル・すこし・ふしぎストーリー。

『カメリ』あらまし

 カメリは模造亀(レプリカメ)。ヒトがいなくなった世界のカフェで働いている。ヌートリアンのアンといっしょに、石頭のマスターのカフェで。真っ赤なリボンを頭につけて、ヒトデナシに出す泥饅頭をこねながら、ヒトデナシたちを喜ばせるには、と考える。ケーキ、エスカルゴ、カヌレ。買い物カゴを持ってオタマ運河のほとりをカメリが歩く。
 変わってしまった世界の中で巻き起こる、レプリカメ・カメリのハートウォーミング・すこし・ふしぎストーリー。

感想

 すごくいいよ、かめくん。
 ありがとう、カメリ。

……だけだと寂しすぎるので、もっと何か書こう。

 『かめくん』『カメリ』どちらもSFである。
 やさしい語り口や、お話の運びの醸し出す雰囲気がまったくそれを感じさせない。端々に背景の世界がどうなっているかを想像させる理系ちっくな言葉こそあるものの──わかる人にはSF的なあれやこれやを想起させる──それは知らなくてもさらりと飲み込んでしまえるようなやわらかさ。
 日常もののようで、『ぼのぼの』にも通ずるところのある、のんびりとしたできごとが続く。
 かめくんが猫を飼う。かめくんがテレビに出る。かめくんが映画を観る。かめくんが温泉に入る。
 あるいは、カメリが卵を産む。カメリが商店街で福引をやる。カメリがテレビに出る(そういえば、カメリもだ!)。カメリがクリスマスを満喫する。
 これは癒しである。
 SFという名の癒しである。
 それぞれ、近未来、遠未来と舞台は異なるけど、共通するのはレプリカメたちの一風変わったものの見方からくるどこかずれた世界像。だけどこれがけっこう本質を突いていたりもする。そこに、カメ愛と、日常のちょっとしたできごとが加わって、それと著者の絶妙な言葉使いやネーミングが合わさって、このなんとも表しがたい独特の読後感を残すのだ。
 正直なところ、『カメ・イン』とか、かめくんがテレビに出てスポンサーの商品名を叫ぶところなんかは電車で噴き出してしまったレベルである。『カエルみたいにヌレッとしている』とか。

 それにしても、感想を書くのがなかなか難しい本もあるものだ。
 悪い意味ではなしに、心の中に「かめくんかめくん」「カメリいいよカメリ」という気持ちを引き起こす要因になるものが、文章のレベルから物語のレベルまで、たった一単語から、おおきなひとつの段落、章全体、本全体まで、様々なレベルに分散して宿っていて、すぱっと一言、一文で言い表すのが困難なんだと思う。
 それだけ細やかな気づかいをもって書かれている。独特のリズムがあって、小気味のよさがある。文章のリズムや言葉の選び方がおもしろくておかしい。お笑いのような、落語のような、押して押して笑わせる部分もある。「ごうか・きばこいり・かめかめこうきゅうじきねっくれすうううう!」のような。そういえば北野さん、関西の人だった。さらにそういえば、創作落語も書かれているのだった。
 うーむ、もはや計り知れない気づかいその他いろんなものがこもっている。
 がんばってまとめてしまうと、言葉にできないこの読んでるとき・読後の気持ちは、

このツイートに言われるように、読んだときに言葉と登場人物が踊り出す感覚、なのかもしれない。

 お江戸でハナシをノベルがあったら、また行きたい。


 カメリ、ツリーのポーズ。

円城塔『プロローグ』

 読み終わってから感想を書くまでに二週間経ってしまった。

 われらが円城塔によるドトール放浪記旅行記日記愚痴集卒論私小説
 円城塔の本は、円城塔本人が告知してくれないので、基本的にはAmazonあたりで定期的に「円城塔」で調べて新作の刊行を知ることになる。そして、また一月末に本が出るようだ。カート・ヴォネガットの講演の翻訳だそう。ほしいのう。買うかのう。逸れた。『プロローグ』もAmazonで刊行することそのものと、刊行日を知った。2015/12/24。そう信じてたのに……。Amazonの発売日と、書店での発売日は異なるようで、12/24に買いにいったとき、「12/24以前に(二日くらい前に)書店で並んでいた」との情報を得た。ヴィックらこいた。その情報は買う前にほしかった。だから次は、早めに書店での発売日をチェックすることにしようと思った。
 待っていろ、三省堂!!

あらまし

 あらましっていうかなんていうか、円城塔私小説である。円城塔が世界を飛び回りながら小説を書くことについて思索しつつ、さまざまな実験を試みる足跡。でも、私小説ってなんだっけ。

作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説 --- 『私小説』, Wikipedia

 ふむふむ。
 たしかに円城塔が喫茶店を巡り、世界を巡り、史跡を巡り、思索を巡らしているところなんかは、なかなか私小説である。自身の経験や行為を登場人物に託して、まるでほんとうにあったことであるかのように日々のさまざまが綴られる。
 曰く、出版業界は現状f**kであり、メタなんてものはないのであり、日本語はMeCab氏によって電子データ上の恩恵を得られるのであり、書籍はその更新についてコストを払うものになるのであり——云々。  要するに私小説である。

感想

 円城さんっていろんなところにいっているのね。
 話としては、円城塔(の役を負った雀部)が展開するお話が、そもそもお話ってなによというところから定義しつつ、雀部(≒円城塔)が登場人物を設定し、あとは野となれ山となれ、とはいいつつ円城塔の代理人としていろいろやっていきつつ、なんだか幻想小説のような部分ももちつつ、最後にはエモく人類に何かがあったテラへとお話は到達(物理)するのである。
 そして『プロローグ』たるテラから繋がるお話の系譜の遠い先には、『エピローグ』たるお話がまっている。

 そう、タイトルどおり、『プロローグ』(私小説)と『エピローグ』(SF)は繋がっていたんだよ!!

 ΩΩΩ<な、なんだってー!?

 胸の熱くなる私小説であった。
 なにより小説について、計算機寄りの考察がなされていて、いくつもはっとするところがあった。古典文学は、小説は、もっと電子的に触りやすいところに、触りやすいように整形され、置かれるべきである。ぼくもそう思った。オープンソースなソフトウェアはだれでもソースが(小説でいうとオリジナルの電子データが)だれでも触れるようになっているのだから、そうあるべきだと。そうあることで、テキスト解析がしやすい状況になり、そしてそれはたとえばMeCab氏なんかの辞書の自動作成のような、機械に任せたいような作業を機械に任せる研究の足掛りになったりするのだ。  なのに今の出版業界はなんだ、なんでだ、と続く。

 テキストデータが根本にあって、そこから印刷用のデータがつくられたり、再印刷されたり、電子書籍データがつくられたりするんだと思ってた。というか、普通に考えて、そうあるべきだ。だけど実状はてんで異なるらしい。
 ソースコード(著者の原本)と、検証用のデータ(ゲラ、だいたい紙、ときどきPDF)と、本番環境(紙、単行本、文庫、電子書籍などなど)が異なるって、ちょっとなにをいっているのかわからない。ていうかアブない。アブない。
 でも、そうらしい。

 そういう慣習を皮肉ったり、時に吠えていたり、日記というよりもはや愚痴大会のようなところがあった。

 そして、そういう照れを隠すかのように、幻想的なストーリーが進んでいくのだ。円城塔私小説を書いたのに、そういう事情や内部がコンピュータ用語や専門的な考察にまみれていたりして、合わない人は合わないだろうなあ、と思う。
 だけど、円城塔曰く「新聞記者の人が感想を寄せてくれて、『プロローグ』読めないという人や、『エピローグ』読めないという人がいた」ということだから、不思議だ。あまり詳しくない人だろうから、『プロローグ』も『エピローグ』も、つらいはつらいはずだ。
 その間を隔てるものはなんなのだろう。
 いまごろそういうことを考えてても、おかしくはないな、と思う。

 さいごに、githubリポジトリの停止、ご愁傷さまです(意味深な笑み)。

サイン会に行きました

 代官山の蔦屋書店のサイン会に行った。
 緊張するので、直前でビールを飲んで待ってた。

Twitterでの引用の仕方 --- あるいはもの書きであるということ

 Twitterを利用する上で気をつけたほうがよいことについて、近ごろ思うところがあったので、ここに書き散らしておこうと思う。

 要点は三つだ。

  1. 引用の四原則を守る
  2. 引用に関するTwitterの機能をうまく使う
  3. 情報の発信者に敬意を払う

 当たり前に感じるかもしれないけど、意外と意識できていないことも多い。
 この記事では、引用についての考え方や作法、それを通じて、もの書きであることについて考えていく。
 対象読者は、Twitterを普段よく利用する人、また記事後半ではネット上でものを書く行為をしている人を想定している。

他の情報源の情報を参照すること

 なにかを発信していると、なにかしら他者の言葉を引っ張ってきて自分の意見を載せたいと思うことはよくある。感想や意見だったり、主張の裏付けに使ったり。そしてそのソースは、著作や、ウェブサイトや、Wikipediaやブログや、SNSの他人に発言やら、様々だ。
 そんな、他者の言葉や表現を自分の言葉や表現の中に含める行為を引用というが、そんなとき、むやみやたらとそれをコピペしていいわけじゃない。
 引用には作法というものがある。引用の作法についての詳しい説明は以下のブログ

第8回 引用のマナー - 文章表現の授業です

を読んでもらうこととして、ここでは簡単に四つの柱を挙げておく。

  1. 引用元を明記する
  2. 引用元の文章を改変しない
  3. 引用であることを明らかにする(引用とそうでない部分を分ける)
  4. 引用を主たる内容としない(自分の主張を主とし、引用は従とする)

 これが引用の大原則だ。とっても簡単で、気をつけてさえいればいつでも実践できる。
 大学などでレポートや研究論文を書くときに、引用の仕方については指導がなされたり、あるいは自分で調べたりすることもあると思う。けどこれは、レポートや論文に限らない、情報発信におけるマナーとでもいうべきものだ。
 なぜマナーなのか、それは後半で述べる。

引用に関するTwitterの機能をうまく使う

 日々タイムラインを追いかけていろいろなツイートを見ていると「これはおもしろいな、みんなにも見てほしいな」なんて思うことはよくあることだと思う。
 でも、だからといって、そのツイートをコピペしてツイートしてはだめだ。それは世間ではパクツイと呼ばれる。そして、パクツイの対象はべつに、ツイートだけに限るものじゃない。
 世間にはパクツイアカウントなるものがある。他人の、ウケの良かったツイートや画像などを勝手に、出典も明かさずにツイートする、わるいアカウントだ。他人のツイートをコピペしてツイートすることは、そんなわるいアカウントと同じことをしていることになる。これはよくない。

 でも幸いなことに、Twitterには引用をしやすくするような機能がいくつも組み込まれている。それらをうまく利用することで、パクツイを避けることができる。

リツイート(公式リツイート)

 いわゆるリツイート機能。
 Twitterの最初期に他人のツイートを、頭に"QT"を付けて元ツイートを拡散するという使い方が発見され、使われていった。でも、それだけだと元のツイートが文字数制限のせいで切れてしまったり、あるいは改変され湾曲された情報が拡散されるということが起こった。
 そこで公式に実装されたのが公式リツイート機能だ。これを使えば、元のツイートを改変することなく、引用元も明らかにした状態で、他の人に知らせることができる。
 使い方は、知っての通り。あのくるっと回った矢印のボタンだ。
 今ではあって当然の機能だけど、思えば、引用元を明らかにするという機能の端緒だった。

URL埋め込み

 ツイートの中にURLを埋め込む(書き込む)と、ツイートにはそのURLへのリンクが表示される。そして、URLが消費する文字数はURLの文字数よりも短い。これはURLで典拠を示すためだけに文字数を消費しないようにする、Twitter社の配慮であるように思う。
 このおかげで、文字数を気にせず引用ができるようになっている。

コメント付きリツイート

 この機能が組み込まれたのは比較的最近だ。
 他のツイートのページURLをツイートに含めるか、公式クライアントならリツイート時にコメントを付けることでこの機能を使うことができる。
 この機能も文字数を多く使わないし、対応したクライアントなら、小さくツイートの内容が表示されるので、どんなツイートなのかが見た目でわかりやすくなっている。ある意味では、最初期のQTと同じ機能と言える。

in-reply-to

 リプライをつけると、そのリプライ先を追えるようになっているのはご存知のことと思う。この機能はリプライしようとして@から始まるユーザ名を消しても有効なままだ。
 これをうまく使えば、自分のツイートが長くなってしまいツイートを分けたいようなとき、前のツイートにリプライして繋がりを維持できる。続きのツイートには「続きます」「承前」などの言葉を添えていると親切だろう。引用とは話がずれたけど、引用を元にツイートを展開するとき、はじめのツイートに引用元を書いて、そのあとに自分の意見等を続けていく、という使いかたもできる。


 引用をするときは四原則に気を付けて、このような機能を使うことで、文字数にあまり悩まされずにパクツイ行為を避けることができる。

情報の発信者に敬意を表す

 対象読者にある、「ネット上でものを書く人」に読んでもらいたいのはここからだ。

 正しく引用することはマナーだ、と先に言った。でもそれはなぜだろうか。それが情報の発信者に敬意を表するという部分に繋がってくる。
 情報が発信されているからには発信者がいるはずだ。けど、他の人間がその情報を出典も示さず発信したらどうなるだろう。そのような行為は、本当の発信者の労力や功績を否定する。発信された情報は発信者が労力を掛けて調べ、あるいは考えて作りあげたものかもしれない(実際発信するだけの時間は使っているはずだ)。なのに引用の作法を守らなければ、発信者の労力を無視し、功績だけを横取りするようなものだからだ。
(ちなみに、教えてもらった情報をソースを添えて周知するのはまったく問題ない)

 引用の作法を守ることは、発信者を尊重することの第一歩だ。発信元を明らかにすることで発信者の努力を労い、敬意を表した上で初めて、自分の主張を発信する権利がと言える。
 だけど勘違いしてはいけないのは、引用の作法さえ守っていればそれでいいわけではないということ。当然のことだけど、情報を発信したり、人にものを言ったりするときに配慮しなければならないことはたくさんあって、引用の作法はそのうちの一つにすぎない。

 ものを書いているという自覚がある人こそ、こういった部分に繊細であってほしい。
 ものを書くということは、それまで見聞きしたものの上に成り立つものであるから。

“私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。” --- アイザック・ニュートン *1

円城塔『エピローグ』

 読み終わってから感想を書くまでに二週間経ってしまった。

 ついにきました円城塔オリジナル長編。
 発売日に書店に足を運んで震える手で買ったんだっけ。それとも、お仕事があるから土日まで待って神保町で買ったんだっけ。読んでいる間の衝撃のほうが大きくて、買ったときのことを忘れてしまった。
(ちなみに書籍の購入日を見たら複数の本を買ってるので、おそらく後者だったもよう)
(というか『シャッフル航法』の記事に「『エピローグ』買った」って書いてた)

あらまし

 人類は突如オーバー・チューリング・クリーチャ(OTC)の侵略を受け、もといた宇宙を捨ててこの宇宙へと逃げ退いた。軍の〈ごみ拾い〉に所属する朝戸連は相棒の、文字通り人智を越えたロボット、アラクネと共にOTCとの戦いに臨む。  いっぽう、べつの宇宙の刑事クラビトは、複数の宇宙を股に掛ける一件関連性のまったくない、不可思議な連続殺人事件の調査を命じられる。宇宙の起源に迫るほどの入り組んだ理由を持つ痴情のもつれによる殺人、可能宇宙のすべての自分を消すような殺人、ローグライクな宇宙での殺人(@)、などなど。
 OTCとは何なのか。朝戸の持つ能力とは。宇宙はいまどうなっていて、あの女の子はどこにいるのか。そして、神鳴りを纏うおばあちゃんの正体とは。

感想

 初撃(読了直後)の感想がこれ。

 そしてほんと、これに尽きる。

『エピローグ』はそもそもが、読むことと書くことについて考えて書いてきた円城塔だからこそなしえたひとつの到達点だ。
 これまでにも、『これはペンです』とか『松ノ枝の記』とか『AUTOMATICA』とか、書く/読むことに纏わる話は書いてきた円城塔だ。そして、コンピュータエンジニアリング方面や数学方面にも手を出している円城塔だからこその発想がもりだくさん登場する。
 サービスとしての、惑星、宇宙、そして実存。二宇宙間(上?)にあってそれらを結ぶチューリングミシン、そしてそれにより超宇宙的に編み上げられるストーリーライン。鮮かに過ぎる現実宇宙、そこからの退転、という名の媒体の乗り換え。そして話そのものの時間の原動力と、動かしやすさとしてのラブストーリー。それをかき乱し自らの誕生のために利用しようとする、OTCすら越えたクリーチャであるクラビトの妻(離婚成立)。ページで踊り乱れる文字と矢印。
 どれもこれもがダグラス・アダムズばりの超弩級おバカアイデアにして、なかなか的を射ているのがSFごころをくすぐるのである。ストーリーが二転三転を二転三転くり返して、なにが起こっているんだという疑問をむしろ動力として進む(読む)話は、連載ならではの場当たり的な部分もありつつ、最後にすべてを拾い取り込み飛び越えたりしながら成長していく(主語は「お話」)。
 クラビトが最初に調査にいってきた二つの宇宙、アルゴンキンクラスタとウラジミル・アトラクタを行き来するとき、到着する時間と出発する時間の間の関係は知られていないのだという。それってつまり、物語の時間進行(n文字)と現実の時間進行(t秒)の対応関係は知られようがないというのと同じことではないのか。
 そういうことを積んでは崩して描写していって、なんとなくわかっているような顔をして読んでいって、エモーショナルに煽られたあげく最後にはなぜだかしんみりさせられる、良いラブストーリーである。

 それにしても円城さんは、短編を書き、連作の短編は書き、エッセイは書き、詩も書き、他人の小説を書き、プログラムも書き、(自身の)長編も書き、私小説も書いた。手広い。ほんとうに手広いので、あとは『あとがき』とか『遺書』とかなんかを書くんだろうか、と考えなくもない。あ、小説技法本とか、技術書とか、書いてないものまだまだたくさんあった。
 期待してます。
 技術書。
 オライリーあたりで。

 読みながらもTwitterはちょくちょくチェックするわけで、そうするともう既に読み終わった人のコメントなんかがリツイートされてきたりする。
 その中で、映像化の際アラクネの声は攻殻機動隊タチコマの声がいいな、なんて声を見かけた。ぼくは立場が異なる。スペース☆ダンディのQTの声が合うと思う。あの、なんとも言えないキュートな声がいいと思う。いや、「タチコマ、アリだな」なんて思ったんだけども。

サイン本も買いました

 神保町ブックフェスティバルでサイン本は買えなかったけど(目の前でなくなって、愕然とした)、ちゃんとサイン本は手に入れることができました。

 ちなみに、牧野修の『MOUSE』のサイン本も買いました。

円城塔『シャッフル航法』

 表題の『シャッフル航法』は雑誌の『現代詩手帖』五月号に載ったばかりだったので、まさかすぐに書籍になるとは思わなかった。ずっと気になっていた『Beaver Weaver』などが収録。サイン会では生円城塔を拝顔できたし、インスペクト駆動小説のこともそのとき訊けた(この本所収の『Φ』がそれ)し、幸せいっぱい。
 つぎ(の円城塔)は、と『エピローグ』を買ったけど、円城塔の文章はとても濃いので間になにか別の本を挟みたいところ。
 現代語訳で『雨月物語』も出るしね。
 あとは、『文藝春秋』で連載してた私小説『プロローグ』とか、あと一冊新刊が出るみたいだけど、そちらはまだ情報が見あたらない。

 あ、『プロローグ』はgit pullしとかないとな。

あらまし

 今では広く普及した、カードのシャッフルのように宇宙を混ぜ込み入れ替え差し替えて、恒星間の移動を実現するシャッフル航法。その成熟期に起こったとある実験事故のようすが描かれ、またそれによって初期の開発における幸運を示す。
 ……という内容の表題作・詩の『シャッフル航法』を含めた短編集。

  • 内在天文学
  • イグノラムス・イグノラビムス
  • シャッフル航法
  • Φ
  • つじつま
  • 犀が通る
  • Beaver Weaver
  • (Atlas)3
  • リスを実装する
  • Printable

を収録。『(Atlas)3』は「きゅーびっく・あとらす」と読む……んだけどこんな事情が、ある。というかいまさらっと(Atlas)^3って書いてプレビューしてみたら、ちゃんと三乗の表示がされてて、はてなブログ恐るべしとビビってる。

 あ。サイン会でもらったコピ本(短編)のことを思い出した。タイトルが面白そうなんだよね。『〈ゲンジ物語〉の作者、〈マツダイラ・サダノブ〉』、読まねば(どうみてもピエール・メナール)。

感想

 おバカと数理と計算機のよくでてくる短編集。おおまじめにおバカしていて、あるいは実験していて、そしてとてもおもしろい。

 円城塔作品の中ではわかりやすめな部類に入るんじゃないだろうか。  『Gernsback Intersection』(『Boy's Surface』所収)みたいに大混乱の様相を呈していたりはしないし、『equal』(『バナナ剥きには最適の日々』所収)みたいに形式に偏ってばかりもいない。『シャッフル航法』や『Φ』では小説の表示の形式を利用して話を組み立てているけど、その構造についての説明がちゃんとあって、何が起こっているのかわかりやすい。
 そして全体的にコミカルで妙な切迫感がある。

 この本の中の短編はだいたい、センチメンタル系、コミカル系、すごく・ふしぎ系に分かれると思う。それぞれ、『内在天文学』『シャッフル航法』『Φ』『Beaver Weaver』『リスを実装する』、『イグノラムス・イグノラビムス』『つじつま』『(Atlas)3』、『犀が通る』『Printable』って感じで(個人の感想です)。円城塔は、サイン会のときにぼくの前の女性も言っていたけど、とてもエモい。話によってはそれが外に出てこないこともあるけど、この本はどれもなかなかエモーショナル。
 特に『リスを実装する』なんかは、円城塔にしては珍しく、現実的で未来を考察したふつうのSFに見えて、そしてとってもなんだかしんみりする。息子のことや妻のことを投影してはいないリスのプログラムと、歯車職人の多米(ため)さんのつくった自重で動く機械、つまり主人公と妻の出会いがはたして可能になるのかどうか、という不安。
 あるいは『Beaver Weaver』の、自分達がそう作られるように想像され出でるビーバーが宇宙の論理的構造を齧り伐り倒してなおビーバーを存在させるように動く、主人公、と出会わなかっただろう彼女の逃避行。

 コミカル方面でいくと、『イグノラムス・イグノラビムス』はかなり笑った。『小説宝石』のSF特集号に載ってたのを読んでの再読だったわけだけど、これがかなり吹っ飛んでる。美食家を唸らせて止まない〈ワープ鴨の宇宙クラゲ包み火星樹の葉添え異星人ソース〉を前に、美味しさの衝撃を感じつつその実感を得られない主人公の、当の料理を発見・発明するまでの顛末。その中での、友人の異星人(種族:センチマーニ)が気絶するくだりは最高である。レストランはどう考えても『宇宙の果てのレストラン』で、そこがまた、くすぐる。
 また、『(Atlas)3』の描写不可能理解不能の超越戦闘を繰り広げながら、それをあたかもワインを一緒に飲もうとしているかのように描写しようとして「いそがしい」とかいうくだりも可笑しかった。
 この真顔ですっとぼけをやる感じ、たまらない。

 とはいえがっつりではないものの、わりと専門用語は散りばめられているほうなので(雰囲気程度に)、ちょっとした覚悟は必要かも?

P.S.

 『Gernsback Intersection』についてはおもしろい資料を見つけた(これ)。ここまでの精読をできるのはすごい。ぼくにはそれをできるだけの知識も読書量も、頭もない。感服である。

酉島伝法『皆勤の徒』

 単行本(ソフトカバー)が出たときからずっと気になっていた本を、文庫化に際し、やっと手にして読んだ。後悔しそうだな、と思いながら諸事情により先送りをしていたところに叩きつけるような猛烈な悔恨を味わっている。
 悔しい。色んな意味で。

あらまし

 遠い遠いどこかの星。
 電化製品や家具や配管やなんやかんや有象無象がひしめき増殖する塵の断崖の側に会社はあった。従業者は不定形の社長に日々散々こき使われくたくたになるまで臓物を骨格を作りつづける。
 一体どうしてこんな仕事に。そもそも社長が不定形とは。果たして労災は下りるのだろうか。

感想

 創元SF短編賞の受賞時から、ずっと目にして気になっていた社畜SF。  かと思ったら単に社畜SFなだけではまったくなく、日本語を駆使し漢字を際限なく使い倒して語られる世界は異様で異形で、溢れ溢れるセンス・オブ・ワンダーに圧倒されて最後には放心した。日本のSFはここまで来ていたのかと、それなら安泰だね(なのか?)と胸をざわつかせて要チェックリストに酉島伝法の名を刻み込むのだった。
 オススメ度は、読まなきゃ損のレベル。
 内容については、いいから読めの一言に尽きる。

 狐に抓まれたような煙に巻かれたような気持ちですらいる。
 グロテスクさと妙な雅さと背景に滲むように、でもしっかりとした骨のある設定とが調和して、というより制御された暴走をして、ここではないどこかのできごとが綴られる。その中で微妙に毛色を違えながら、社畜もの、学園もの、探偵もの、探検ものと話を繋いでいく手法は見事としか言いようがない。
 それでいて、中心にはしっかりとSFの骨が貫いている。

『皆勤の徒』はひとつの手法を打ち立てた感がある。
 同じようなことをしようとしたら、同じようなことではなく同じことをする羽目になるだろう。
 著者は、SFと意識させない語りをしようと言葉遣いその他あれこれに気を配ったんだそうだ。これを考え書き上げた労力に、ただただ感嘆の息を漏らすのみである。

 そりゃあ創元SF短編賞も受賞するだろう。
 日本SF大賞も受賞するだろう。
 なにを食べたらこんなの考えつき、描け、そして書けるのか皆目見当もつかない。
 きっと百々似の骨粉蕎麦でも食べて生きてきたんだろう。そうじゃなきゃあ、こんな仮粧は作り上げようのないものな。

森奈津子『からくりアンモラル』

 だいたい一年のあいだに見初めて買って、そのまま本棚の肥やしにしてたものをやっと読んだ。
 ちょうど『MOUSE』を読み終えたところで『MOUSE』読後のこの心の空白を埋めるには同じようなアンモラルな本がよかろうと考えた故の選択は、どうやら正しかったようではあるけど、埋めたはいいが別の空白ができるという事態が発生してしまった。
 どうしよう……。

あらまし

 性愛SF短編集。
 SF短編集といっても、難しいことは書かれていないので、理系用語がたくさんでてきて眠くなるからSFは読めない、なんていう人でもだいじょうぶである。そもそも理系用語がたくさんでてきて難しいSFは、ガチで考証しにかかるハードSFか、とりあえず散りばめちゃった系のどちらかで、後者はとばしとばし読んだら意外と読めるものである。前者はお察し(例:グレッグ・イーガンの『ディアスポラ』)。
 性の目覚めや、性に関わるアンドロイドに纏わるお話が収められている。
 たとえば『あたしを愛したあたしたち』は、十二歳の少女である主人公が、未来から来た十五歳と十九歳の主人公から性愛とタイムトラベルの方法を伝授される、というお話。
 また別の話で、『レプリカント色ざんげ』は、とある惑星国家の占い師に贈られた男性型セクサロイドが辿った百年あまりの人生を語るお話。
 それ以外に、『いなくなった猫の話』は、ある街のバーの女将が、訪ずれた猫のハイブリッド(人と動物の遺伝子を合成してつくった生き物)の客に、若かったころ育てた三毛の猫のハイブリッドのことを話す、というお話。エロはない。

感想

 いきなりどエロである。いっぱつめの『からくりアンモラル』から少女が性に目覚め、ロボットの手を股のあいだに導く。
 でもそれだけじゃない。
 この短編はアイザック・アシモフの『ロビィ』だ。少女が性に目覚めたりする部分は誤差のようなものだ。疎んでいた姉のロボットを、いつのまにか愛するようになる、これは恋愛小説とみることもできる。

 そんな、単に性愛を扱うだけではなく、むしろ性愛の裏にある愛情を扱う短編小説集だった。
 読後に「あっ、すごいな」と思わされた。
 それは性愛SFといいながら、さまざまなものを扱っている。初潮を迎えて「男性の欲望を向けられる」ようになることへの絶望や、成長速度の違う種族との関係の変化、一緒だった心が分かれていくこと、ある王国占い師の愛憎、ジゴロ親子の真実、などなど。エロ小説と言ってはだめだ。奥深いものを扱うこの小説たちをそんな名で呼んではいけないと、読みすすめるにつれて、思った。

 さて、中に少年が出てくる小説は三編あって、『愛玩少年』『一卵性』『罪と罰、そして』である。どれもシーンは少ないものの(『愛玩少年』を除く)、シチュエーション的にはアツいものがあるので、そういうのが好きなひとにもオススメできる。
 なにより、文章が純粋で、それでいてとても官能的だ。こんなに濃くてこんなに清潔な性愛描写ははじめてみた。「エロ描写」ではなにか違うので、そう呼ぶことにする。濃いけど簡素で、表現も巧みで的確だ。「エロ小説」を書くぼくは、この要素を取り込んでみたいと思わされた。エロティックでいて、直接的な表現をしかし遠回しに使って、まさに性愛描写の手練手管といいたいところ。

 ぼくは特に『からくりアンモラル』と、『いなくなった猫の話』、あとジゴロ父子の物語『ナルキッソスの娘』が好きだった。『いなくなった猫の話』はぐっとくるものがあるし、『ナルキッソスの娘』はぐっとくるものを通りすぎていっしょに笑ってしまった。

 ショタがほとんどでてこないし、少女がほとんどだけれど、なかなか良い刺激になると思うので、ぜひお薦めしたい一冊である。

 あ、あと、『いなくなった猫の話』はエロはないけれど、猫獣人が出てくる話です。

牧野修『MOUSE』

 ひとづてにオススメされた本ではあるものの、読後は自分で辿り着きたかったという思いが強い。背面のあらすじで確実に手に取っていただろうことがわかるのだからなおさら。

あらまし

 ネバーランドは子供たちの楽園である。そこにはドラッグをブレンドして体内に直接流し込める機械カクテル・ボードを身に付け幻覚の世界に身を置きながら、体を売って生活をする子供たちが住む。十八歳になると出ていかなくてはならない定めをもつ彼等は自らを実験動物に見立てて「マウス」と呼ぶ。ドラッグによって感覚が互いに溶けあう子供たちは、主観を言葉にのせて客観に作用させ、客観すなわち現実をも変容させる。そんなネバーランドを舞台にした五つの短編集。

感想

 なんと素晴らしい短編集か。それは、文章も物語も、どちらの意味においても。
 幻覚剤の力で、共感覚なんて生易しいものではないくらいに感覚が混ざりあい、声が見え、においが肌を撫で、光景を聞く、だなんて。そんなサイケデリックなアイデアを軸に、言葉で主観を繋ぎ、現実に手を入れ、五つの物語が繰り広げられる。グロテスクでシュールレアリスティックな言葉遣いが、その溶けあう客観と主観を鋭く描写してる。こんな話、見たことも聞いたことも嗅いだこともない。

 世界設定が退廃的で、それがまた心にあとをひく。
 地震で崩壊した埋立地。ドラッグを流し込むカクテル・ボード(「カクテル」なんてネーミングが素敵だ)。さまざまな名前のドラッグたち。言葉で現実を、つまり相手を支配すること。心を上書きする法で、大人にならぬ印刷屋。幻影を飛ばすゲーム。外の世界の、妙に慇懃な謎の男たち。密教のシステムに、霊媒師。    『II ドッグ・デイ』のスエヒロと、『IV モダン・ラヴァーズ』に出てくるピクルスは好きなキャラクターだった。前者は眠りを追う姿が、後者は見た目に不釣り合いな冷静さが、かわいらしくて愛おしい。シーンでいえば『III ラジオ・スタア』のバッド・トリップする乱交シーンは非常に好き。この文章はものにしたいと思った。

 『V ボーイズ・ライフ』でそれまでの短編を一挙に引き受け、ネバーランドを襲う危機を経て、ネバーランドのお話はひとまずお終いとなる。

 この本は、退廃的ながら独特のめくるめく楽しさ、残酷さ、切なさが中にあって、閉じるのが本当に惜しかった。
 もっとこのネバーランドのお話を、と考えているあたり、既に『MOUSE』ジャンキーだな、と感じた。

アレックス・シアラー『あの雲を追いかけて』

 今日読んだ本は、アレックス・シアラー『あの雲を追いかけて』。すごく良い本で、読めてよかった、買ってよかったと思う。


 お話の概要は、以下のような感じ。
 太陽の周りに地球とは比べものにならないほど濃く厚い大気――空が覆い、その空に浮かぶ島々に人々が暮らしている世界。空鯨や空魚が泳ぎまわるこの世界では、水は存在しない。大気中の水分をかき集めて水にするか、放浪の民クラウドハンターたちが雲を狩って得た水以外には。島で普通に暮らす少年クリスチャンは、ある日クラスに転校してきたクラウドハンターの女の子ジェニーンに興味を持ち仲良くなって、週末のクラウドハンティングに連れていってもらえることとなる。


 この著者の本はこれで二冊目だ(正しくは、読んだのが二冊目。積み本として未読のものが別に二冊ある)。前に読んだ本は『青空のむこう』で、これも良い話だった。
 クリスチャンはクラウドハンターのジェニーンに出会い、彼女たちクラウドハンターとの旅や冒険を通して、ときどきは社会や生活の本質を見通したりなんかして、成長していく。最後には別れが待っている。王道の冒険もののようであって、一筋縄ではいかない、不思議な読後感が残った。
 この著者は児童書としては重めの、少々生々しくもある話を書くなあと思う。
『青空のむこう』では事故だったかで死んだ少年が自身の死を受け入れるという話だった。自身がいなくなっても、遺された人は悲しみこそすれども世界は回り続け、遺された人も事実を受け入れ前に進まなければならない、というようなことがメインテーマだったと思う。
『あの雲を追いかけて』は異邦人のであること、彼らと周囲との関わりがテーマだったのかな。入れ墨をいれたり顔に証の傷をつけるが故、いわゆる普通の人と混じって生きていくことができないこと。自由な生き方にもまた代償の伴うこと。そういった現実社会にも存在するような問題が織り込まれている。それらの問題を旅の中で発見し、向き合い、落しどころを探していくクリスチャンの姿を追っていくのは、楽しい。

 世界設定のほうも巧妙で、汚染や争いで荒廃しきった人類が移住してきたこの世界では、島は濃い大気の中に浮かんでいて、高度が下がれば暑くなり、高度が上がれば寒くなる。下に島があればその上は夜となる。濃い大気では体得すれば泳ぐことができる。などなど。島を惑星と捉えると、ある意味で惑星間の冒険をする話ともとることができて、SF的に考えてみると面白い。
 これに関しては次の文章(本文539ページ)が印象深い。

この世界に生きていない人は、こんな世界は科学的にありえないっていうかもしれない。重力や大気の法則に反している、そんな世界は存在し得ない、って。

 そして「でも、どんな世界だってあり得ないんだ、奇跡なんだ」と続く。
 ぼくもそう思う。

 積んでる二冊も楽しみだ。

前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? -ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史-』

 久しぶりのブログ記事である。前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』をやっと読み終わった。
 中断し、読み、中断しては読みで、初めて開いてからだと一年は経ってるかもしれない。じっさいの読書時間自体は数時間だろうけど。

 さらっと紹介をすると、東洋・西洋の宗教や古典的な思想・哲学、現代の心理学や科学、哲学それぞれの分野において心とはどのように理解されていたかを、著者の考えと対比しながらみていく本である。したがってまず冒頭に、著者の立場とそれを理解するための、心身二元論とか物的一元論とかそういった用語の最低限の説明がまずあって、そのあと古今東西の思想の俯瞰へと入る。

 総じて、意識の観点での俯瞰なので、おおざっぱに理解するにはいいけど、読後に他の本を読んでの補間は必要かなという感じである。
 ぼくは直感的には「先ず心ありき」の立場なんだなあ、と実感した。しかしそれと同時に「心はとりたてて意味のあるものではない」という思いもあって、それがぼくの書く小説には端々にあらわれているのかな、とも改めて実感した。この本では著者の主張「心は幻想である」がしつこいくらいに表われる。これをがちょっとうるさく感じられる(実際読み進めるのを阻む原因でもあった)のは、きっとぼくが「心は神聖で、意味のあるものだ」と思いたいと考えている証拠なんだろう。
 しつこいな、と感じつつ読み進めるわけだけど、対談のなかで著者が「どうせ死んでしまうのに」というようなことを発する場面があって、繰り返される先の主張は著者が自身に言いきかせているようにも見えた。そしてそれはぼくが「『心は意味がない』と思いたい」と考えている姿に見えてくる。著者がどうなのかはわからないけど、ぼく自身はそう考えているらしい、ということがわかった。

 対談では哲学者の先生が、フッサール現象学について、とくに「基づき関係」なるものの話をしていて、それが面白そうに思えた。  今の心の哲学などでは心身二元論一元論のように、脳と心を対立させて考えている。だけど、そもそもそれは脳と心の関係の捕えかたとしてはちがうのではないか、その二つは基づき関係という、互いに互いの前提となるような関係にあるのではないか、と哲学者の先生は言っている。
 基づき関係とはある二つのものA(基づく項)とB(基づけられる項)があって、

  • AがあってはじめてBが存在する _(存在の前提)
  • BなしではAはA足りえない _(性質の前提)

 を持つことを言うんだそう。
 つまり、「脳があってはじめて心が存在する」「心なしでは脳は脳であると判断できない」ということではないか、と。二番目の文は、脳を脳だと判断するのは心なので、心なしでは脳も脳でないものもいっしょくたの同じものだ、ということ。
(ちなみに「脳が心をつくっているから心がある」という文は、心の判断によるものなので意味をなさないって、書いてあった気がする)
 この考えかたが目から鱗だった。

 まあこんな感じで、なかなか楽しめるし新しい発見をできる本でした。