馬の頭の走り書き

書いているケモノ小説(BL含む)のこと。あるいは、たまに読書日記とかプログラミングとか。

これはペンですか?

発売日当日(9月30日)に買って、読んだのは10月5日らへんだったと思う。
以下、読んだあとに書いた文章。
=========================
円城塔『これはペンです』
読んだよ!
冒頭の一文は、絶対歴史にのこる。のこれ。

 円城節がいつもどおり炸裂している。余談も余談の小ネタ雨あられ。でもストーリーにちゃんと絡んでくる。そして『Self-Reference ENGINE』『Boy's Surface』と比べると話がわかりやすくなっているように思う。『これペン』にかかるまえに『オブ・ザ・ベースボール』を読んでいて、最近の傾向なのか、それとも狙ったものなのかは判別しがたいけれど、『Gernsback Intersection(『Boy's Surface』所収)』みたいに筋が吹っ飛んでいることはない。似ているといえば『Boy's Surface(『Boy's Surface』所収)』に似ているかも。二編とも時おり笑い、時おり関心し、個々はシュールで総体としていい話だった。

「叔父は文字である。よって書かなければ叔父は存在しない。だから叔父を書く」。姪はそんなような動機で叔父を書こうとしてた。これは要するに、小難しい領域に足をつっこんだ叔父さんっ子状態だったように思う。送られてくる手紙を解読するのは、叔父の一部である叔父が変わった方法で書きつけた遊び。磁石炒めにDNA手紙は、知恵の輪をはずそうとするのに似ているし、送られてきたものが炭疽菌のDNAプラスアルファだとわかったときは、叔父にそそのかされたいたずらを怒られたというような憤りをみせていた。「知らない男の子のために書いている」というのは、そんな姪が成長しているということなのかもしれない。叔父は姪が叔父(文字)が文字でないのかもと理解したときこそ、叔父ばなれをするときだと考えていたとか。ただ、円城さんだそんなシンプルではなかろう。シンプルなわけがない。シンプルではありえない。
 叔父は叔父で、毎度毎度変な制約のもとで文章を書いている。磁石に刻まれた文字を並べて書くなど。磁石に文字が刻まれているということは、すなわちつくりたい文章が反発されたりして制限をうけること。そんななかでもいいたいことは言える、あるいは、制約のなかで「思ったとおり」の文章はつくれないけど、制約によって思考が変わり、けっきょくその制限下での思考における思ったことが書けるということを実践していたのかな。『これはペンです』は叔父と姪の遊びの話であり、姪にとっては叔父を書くペンを、叔父にとっては(叔父の)父と記憶の街を書くペンをさがしている話なのだろうかと、これはぼくの解釈。
 「姪が炒めてしまったので磁力が弱まっています」とかところどころくすりと笑った。こういうまじめくさった小ネタも円城さんの魅力のひとつだ。むずかしげなることばで言い換えている部分とか。
 『これペン』は芥川賞候補になったそうな。某氏がDNAの記述になんか言ったり、某知事がなにか言ったらしいけど、これは受賞しなかったのがふしぎ。どうして。なんにせよ、連続で二度以上読むとさらなる発見が楽しめそうな、というか楽しめる話だった。これを書いたらもう一度読み返す予定であるよ。

 いっぽう『いい夜を持っている』のほうは『これはペンです』をうまく受けてたたんでしまった。ほんとうにうつくしくそっけなく語られてた。
 主人公は、超記憶をもつ父を理解しようと父を読んだ。父の記憶の街を読んで、父の思考をたどった。忘れることもなく、初頭の概念が実体をもって闊歩する記憶をもてあましていた父が、いかに時間という概念を知ったか。それでも混濁する街をいかにしてあつかうか。母1、母2、以下略、夢とその夢、ちがう夢とその夢の夢。街が階層をなし、父は街の物語にべつの街の物語をつけ、さらにべつの街の物語を……と繰り返すことで無限の階層を得ていた。父の睡眠とは夢であり覚醒の場であったけれども、一般的な意味での、真なる睡眠の存在を知ったとき父は記憶の檻から逃れる。そして主人公は父に似ていると姪にいわれ、姪を背負って記憶の街に帰っていく。
 ストーリーが、記憶の街が、すごく綺麗なんだよなあ。SREやBSFでは見られなかったあらたな一面だ。なのにどちらも裏に構造がある点はいつもどおり。円城さん、ますますファンになった。一生ついていきたい。